現在の充実

禅は一方究尽の修行である。そのものになり切ることである。一挙手一投足の上に真実の道を体現し、一切時、一切処において全自己を没入し、そのものになりきる修行である。

今日を見失わぬ、今を見失わぬ、というように、全生活を一歩の浮き足なしに現在を充実していくが禅だ。
自分の生活がほんとうに自分自身になっていなければその時その所に全自己が露われ、全自己が天地の間に充満していれば臨機応変、どう動いてもその瞬間が完全である。真の生活は坐禅から生まれる。仏祖の坐禅が人間の基盤だ。説法は、ポンプから水の出ない時にさす柄杓に一杯の迎え水である。そのあとは、自分でポンプを押して、生活の水を引き出さねばならない説法そのものが仏法の全部ではない。禅は坐禅をおいて他にない。

瓦を磨いて鏡をつくる

むかし、中国に馬祖道一という偉い禅師がいた。馬祖が南嶽懐譲禅師の下である日坐禅をしておった。
すると師匠の南嶽が、瓦を一枚もってきて、その鼻先でゴシゴシ磨き出した。
「あなたは何をするのですか」
「いやお前が坐禅をして作物をするというから、おれは瓦を磨いて鏡とする」
「瓦がどうして鏡となりますか」
と弟子がいうたら、師匠の南嶽が、
「坐禅をしてどうして仏になるのか」と答えたという。
世間ではよく間違って何々様にお祈りして病気をなおしてもらうとか、幸運を授けてもらうとか、人間の欲望をみたすことを仏教と心得るけれども、そういうものが仏教ではない。したがって、坐禅ずるのも、出世や一生を楽におくるためのものではなく、また坐禅をしたから寿命がのびたとか偉い人物になったとかいう問題ではない。人間の考えから何か功徳を妄想する者に対しては、坐禅をしても何になるものでもない。仏道修行するには、思い切ってそんなものをフットバしてしまわなければ、そして凡夫の考えがコロッとひっくりかえらなければ、仏道になるものではないことを心すべきである。

禅と坐禅

南嶽大師は瓦を磨いてみせたじゃないか。坐禅を人間の役に立ててはならぬ。念仏をお布施の役に立ててはならぬ。人間が仏のする坐禅をする。人間の肉体で仏をつくる。それが坐禅であるのだから、人間から考えればそれは何にもならぬ。人間から考えて何にもならぬが、そんなもの一切切り捨てて坐禅する。すると凡夫ではなく、それが仏である。だから、とにかく、坐禅は性根を据えて坐わらなければならぬ。坐禅にも、餓鬼道の禅もあれば畜生道の禅もあり、修羅堂の禅、衆生の禅、菩薩の禅もある。が必ず仏坐に安座すべしだ。つまり全く自分の「はからい」を一切止めてしまって仏祖と同じ事をする、これが只管打坐・仏祖正伝の坐禅である。身構え肌触りが仏祖と同じ、釈迦や達磨と同じに持ち込むということが、道元禅師の『学道用心集』にある「身心を調えてもって仏道に入るなり」ということである。まったく自分の「はからい」を一切止めなければ、息を調え、体を調えるということにはならない。こうしてまっすぐに仏祖の教え通りに坐る。

まず坐れ

     まず坐れ。
       そうあわてるな、
 まず坐相をととのえろ。
    この坐禅が坐禅になりきってはじめて、
       すべてが禅から出発し、
      坐禅の中から一切の生活をきわめ、
         社会に仏法の御用がつとまるのだ。